GALLERIA PROVA

社長・鈴木洋樹が語る
PROVAの生い立ちと今日までの歩み

パリで見た1枚の絵
このことに関しては今まで何度か書いてきたので、一部の人には耳タコかもしれませんが、このホームページを通じて初めて弊社のことを知った方のために、もう一度「ガレリア・プロバ」の歩みを振り返ってみたいと思います。
まずはその生い立ちから。

1976年以来、私はミラノで小さな商社の駐在員として働いていました。
たった一人でヨーロッパ各国を飛び回っていたのですが、1979年の秋、パリのとあるギャラリーでふと目にした絵に目が釘付けになりました。
山形博導(ヒロ・ヤマガタ)さんの小さな油絵でした。

いつになく強く心惹かれた私は、以来、1年半ほどの間に幾度となくそのギャラリーに足を運ぶようになりました。

10回以上通った末、ようやく店主から、ヤマガタさんが私と同世代で日本の「マイバラ」出身であることを聞き出しました。

「マイバラ・・・」
偶然にも滋賀県出身だった私には、聞き覚えのある懐かしい地名でした。
しかし、彼について聞き出せた情報はただそれだけだったのです。

折良く、出張で日本に戻る機会に恵まれた私は、成田空港からそのままの足で新幹線に飛び乗り、唯一の手がかり「マイバラ」を頼りに滋賀県の米原町に降り立ちました。

駅前の蕎麦屋さんの電話帳を借り、「ヤマガタ」姓の家に片っ端から電話をかけまくった私は、幸運にも何十件目かに彼の従姉の女性と話をすることができたのです。

山形博導との出会い
彼女の話によると、ヤマガタさんのご両親はすでに千葉県の佐倉市に引っ越してしまったということ。

すぐさまトンボ帰りし、その翌日にはヤマガタさんのご両親のもとで、ヒロミチさんのハチャメチャに楽しい性格と子供の時からの天才的画才についてお話を伺い、手元にあった何点かの作品も見せていただきました。

醒ヶ井小学校、河南中、米原高校と進んだ彼は、実に、私とはお隣同士の学校の一年先輩でした。

こんな奇遇もあり、「是非とも本人に会いたい」という思いを強くした私は、一旦イタリアに戻ってから再挑戦して今度はやっとヤマガタさんにロサンゼルスで会うことができました。

当時、長年住んだパリからロスに移ったばかりのヤマガタさんは、ちょうどマーティン・ローレンス社と版元の契約を交わしたところでした。
そこで彼から、是非マーティン・ローレンス社から日本の代理権を取り、自分をプロモートしてくれと頼まれました。

ガレリア・プロバの誕生
当然その頃には、ドップリとヤマガタ・ワールドに浸っていた私は二つ返事で承諾し、ミラノでの数か月のお礼奉公の後退社、帰国し、1981年4月15日に株式会社プロバを設立
ヒロ・ヤマガタさんしか扱わないギャラリーを始めました

何しろ、ドのつく素人がヨタヨタ始めた画廊です。

ちょうど、イタリアの細い路地をトロトロと走る小さな国民的名車「フィアット500」が思い起こされました。

故障が多いのに、とても愛されているこの車に仮ナンバープレートをつけたイラストを弊社のロゴマークに決めました。
実際、イタリアでは正規のナンバープレートが発行されるまでの車は「prova」というプレートをつけて走っていたのです。
「prova」は、まさに仮ナンバーという意味です。(試みる、努力するという意味もあります。)
当時の私にはぴったりの社名に思えました。

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